ふたたびまどろみのなかで

原口昇平のブログ

【仮訳】ヒバ・ダーウードの証言(『ガザ・モノローグ2023』から)

正直、具合がよくないんだけど、あったことをみんな話すよ。

はじめは自分の家にいた。夫とふたりで、一緒にれんがをひとつずつ積み上げて築いた家。そこに私たちがいるのに、戦車は止まらず近づいてくる。暮らしてたのは、アルシファ病院の裏手。戦車がどんどん近づいてきて、私たちはあるとても暗い夜、寝ている間に何発もの弾が頭上を飛んでいく中を生き抜いた。

私たちは朝まで待ってから、自宅を発ち、親族のところへ向かった。そう、「死ぬなら一緒がいい」ってよく言うでしょう。だから私の夫の一族と一緒にいた。みんなでひとつの家の中にいたけど、どこも安全じゃなかった。実際、ガザ地区のどこにも、安全な場所はひとつもない。2日後、ミサイルが1発、私たちの家に着弾した。お金なら替えがきくけれど、大切なのは、ありがたいことに私たちが無事だということ。

翌日の夜11時ごろ、夫の一族の家の近くで爆竹が鳴った。みんなは恐怖で震え上がり、おのおの子どもを抱きしめた。義父は義母を、夫は私とふたりの子どもをそれぞれ抱きしめていた。ロケット弾があたりに落ちてくる中、一緒に座って震えていた。ガラスや天井が砕け落ちはじめ、私たちはミサイルがやむのをいつとも知れず待っていた。少なくとも50発は飛んできたと思う。あたりに50発も撃ちこまれて、私たちは死を覚悟した。実際、死は避けられないと私たちは思った。落ちてくるミサイルは真っ直ぐ私たちに向かって飛んでくるんだから! 眼の前で火の手が上がり、ガラスが割れ、壁が崩れるのを見て、私はすっかりくじけてしまった。少なくとも1時間半、私たちの目前には死があった、紛れもない死が。

爆撃が止んだ。私たちはもう3階にはいられなくなった。壁や天井から水が漏れ始めていたから。そこで私たちは1階へ降り、階段下のスペースへ移動した。爆撃が再開するのではと2時間ほどその階段下にいたけど、何も起こらなかった。爆撃は止んだんだ、イスラエル軍は爆弾を切らしたんだと考えて、私たちは階段下から出た。

義父は立ち上がって祈り、夫は座ってコーランを読んでいた。夫は読み終えるとこう言った。「よし、寝支度をしよう。女性は寝室で寝てくれ。われわれ男性は大広間にいる」私たちはもう3日間寝ておらず、身体を休めることが少しもできていなかった。真夜中過ぎの1時、私は寝室へ行った。頭を横たえて、娘と息子と一緒に眠った。私は夫にこう言った。「そばにいて。そばで眠って」 だから夫は私の隣で眠った。

未明の3時、夫は寝室を出て他の男性たちの隣に陣取り、入れ替わりに義妹が私のそばへ来た。すると突然、家全体を揺るがす大きな衝突音がして、私は飛び起きた。爆撃されたんだ。あたり一面に粉塵が舞い、子どもたちは煤で真っ黒になり、私は息ができなかった。義妹が私のそばで泣いていたから、私は言った。「死ぬときは殉教者になるのだから、ねえどうか泣かないで」

義妹が何とか私に言えたのは次の言葉だけだった。「父さんとがいい、ヒバ、私は父さんと一緒に死にたい」 私は部屋の扉のほうを見たが、瓦礫の山に次ぐ山しかなかった。爆弾が直撃したのはこの家だったのだと分かった。

瓦礫の山をよじのぼって大広間へ行くと、人間の痕跡は跡形もなかった! 居間では男性たち全員が瓦礫の山の下敷きになっていた。誰の姿も見当たらなかった。誰の声も聞こえなかった。誰も生きていないかのように思われた。私は夫を探し、夫の名を呼び始めた。呼び続けたが、夫の声は聞こえなかった。私は義父を見つけた。まだ意識があった。義妹の夫は殉教者となっていた。どうか彼に神のお慈悲があらんことを。義妹の夫は、義父や夫と同じように医師だったけど、血まみれになって殉教していた。義父はまだ生きていた。だから頭を動かし、遺言を述べ、微笑んでから亡くなった。

私は夫を探し続けたが、見つけることができなかった。今思えばどうやったのか分からないけど、れんがを一つひとつ持ち上げていった。瓦礫をどうやってどけたのだろう。れんがを持ち上げながら夫を探し続けていると、ようやく頭を見つけた。頭皮が剥がれていた。つまり、頭皮の外側がぶら下がっていた。何も分からなくて、夫は死んでしまったと私は本当に思った。私は夫に向かって泣き叫び始めた。夫の名を呼び、この手で夫のまわりから石をどけていった。夫の両足はふたつの大きな瓦礫に挟まっていた。
大きな瓦礫を夫からどけると、苦痛を訴える夫の叫び声が上がった。まだ生きている。私は石を夫のまわりからどんどんどけていった。夫の頭皮は剥がれているだけでなく、耳までちぎれていて、ひとつながりのままぶら下がっていた。私が夫を助け出していると、隣で暮らしていた夫のおじがやってきて、夫を運ぶのを手伝ってくれた。私たちは大きな木片の上に夫を載せた。

そのとき奇跡が起きた。ふつうは住宅が爆撃されると、通信サービスは完全に遮断される。だけどそのときはまだつながっていて、医師である私の父に電話をかけることができた。しかも夫の携帯電話も使えた。夫も医師で、知り合いが大勢いたから、あちこちの医師に電話をかけて私が見た限りの現状を伝え、私にできることを尋ねた。本当に、私にできることといえば夫の頭に包帯を巻くくらい。身に着けていたヒジャブを脱いで夫の頭に巻いて結び、バンダナで覆った。全力を振り絞って夫の命を守ろうとした。

私の子どもたちは無事だった。外へ出て確認し、夫のところへ戻った。私の周りには子ども、子ども、子どもばかり。めいたちは瓦礫に埋もれていた。掘り起こして出してあげたけれど、みんな殉教していた。一家で殉教者9人。殉教者9人、9人。その中には生後28日のめいもいる。戦争中に生まれて、戦争中に死んだ。出生証明書よりも先に死亡証明書が出た。私たちが瓦礫の山を掘り探っているあいだも、爆撃は止まなかった。掘り進めているうちに周囲が火に包まれた。まったく容赦がない。爆撃は続いた。しばらくして爆撃が止むと、私たちは救急車、民間防衛隊、赤新月社に電話をかけたが、どこも出てくれなかった。応答はなかった。ようやく誰かにつながっても、こう言われた。「たどり着けません。そこまでたどり着けないのです」 想像してみてほしい。爆撃は未明の3時半。夫は負傷し、病院へ行かなければならないのに。

私は手を夫の胸に当てて痛みを和らげようとした。できることを全てしてあげようとした。誰もここへ来てくれないから。誰も。ここへ来ようとする救急車は、イスラエル軍によって撃たれるだろう。

誰もアブー・ハシラ街区へ立ち入ることができなかった。私は朝9時か10時頃まで夫のそばに座っていた。イスラエル軍は家を爆撃した後で、隊列を作って通りを行進した。私は、もとは家だった瓦礫の山の上で夫と一緒にいて、通りを見つめていた。お隣さんの家が視界に入ったから、話しかけに行ってこれからどうするつもりか、どこへ行くのかを尋ねた。参考にするためだ。

彼は電話番号を教えてくれた。そのとき2発のミサイルがお隣さんの家に落ちてきて、お隣さんが逃げようとしている間に家が崩れ落ちた。お隣さんは白旗を揚げていたのに、親戚のところへ逃げようとしていたのに、ミサイルが落とされ、お隣さんは殉教した。耐えられない。行くべきか、とどまるべきか、何をすべきかも分からなかった。世界に、私たちを代表して訴えかけることができる誰かに呼びかけようとしたけど、私たちには何もできなかった。赤新月社は、救急車を向かわせたとしてもイスラエル軍に攻撃されるから、たどり着けないという。何もできないのだ。本当に、私と一緒にいる生存者といったら、夫イブラーヒーム、夫のおじ、女性たち、夫の年老いた母、私と同年代の娘たち。夫を抱えて家の中の安全な場所へ移動させることもできなかった。上の階の天井が、下の階の天井の上に崩れ落ちていたから。

みんなただ、私の夫と一緒に座っているしかなかった。夫が呼びかけに答えられるかどうか、私は確認し続けた。私がときどき夫を起こして「生きていて、生きていて」と言うと、夫は何かつぶやくので、夫がまだ生きていることが確認できた。

午後4時半、爆撃はまだ続いていた。ミサイルが頭上の天井に落ちてきて、天井はまたも崩れかけている! 私は、家の中で一緒にいた人たち全員に夫を移動させなければならないと伝え、みんなでとても慎重に夫を運んだ。夫は瓦礫の下にいたので背骨がやられているかもしれなかったが、私たちは夫を運んだ。人には想像できないくらいとても慎重に。夫は痛みに身をよじっていた。かわいそうに、だけどいつ落ちてくるか分からない天井から夫を守らなければならなかった。爆撃を受けたけれどもう少しマシな状態で残った隣の家へ私たちは行って、座り込んだ。とても暗い夜だった。まさに、人生で最も暗い夜のひとつだった。すべての明かりを消して、すべての携帯電話をオフにして、自分たちがそこにいてまだ生きていることを、イスラエル占領軍の兵士たちに悟られないようにした。そしてひたすらに、朝になれば助けを呼べると私が家族に言い続けたから、私たちは朝へたどり着けたのだった。私たちは、私たちの助けを乞うてほしいとあらゆる知人に呼びかけた。するとありがたいことに、ジャアファリ先生が世界へ向けてくれた訴えが1800万回も視聴された。またアルジャジーラのおかげで、私たちにいくらか注目が集まった。殉教した私の義父は「ハママ先生」としてよく知られた医師だったからだ。アルジャジーラはこう報じた。「多くの負傷した女性と子どもがいるアル=ナハル家にも助けを」

午前9時、イスラエル占領軍から電話があり、直ちに家から退去するよう言われた。同じ通りには25の家族が暮らしていて、私たちと同じように追い詰められ、傷ついていたというのに、イスラエル軍から電話で即時退去を要求されたのは私たちの一家だけ。いわく、「直ちに家を退去せよ。さもなければ被弾するだろう。その家をわれわれはこれから爆撃する」というのだ。

私は兵士に言い返した。「私だって出ていきたいんだけど、夫がけがをしていて、病院へ行くには担架が要る。抱きかかえては行けない。この道では、背負って運べない。あたり一面、瓦礫と石なんだから。どうすれば夫を運べるっていうの?」兵士はこう答えた。「自分で解決しろ、こちらは何も提供しない」「ああそう、ああそう。じゃ赤新月社に言ってよ、私たちに退去してもらいたいって」兵士は言った。「赤新月社に手伝ってもらえ、直ちに爆撃する」兵士は繰り返した。「爆撃する、直ちに退去しろ」

それで私たちは狂ったように駆け出した。そう、まさに狂ったように。私が夫にここを退去しなければいけないと伝えると、夫は言った。「みんなと立ち去れ、俺はここに置いていけ。もういい、俺のためにお前を危険にさらすな。お前の命を守れ」それで私は言った。「神に誓って、私はあなたを置き去りにしない。あなたの隣で死ぬ。あなたと一緒でなければここを動かない」みんなが、私の夫を置き去りにはしない、むしろそばにいると言った。夫が共にここから離れるまでは、私たちはとどまる。

みんなで夫をプラスチックの椅子に乗せて運んだ。どうやったかはよく覚えていない。とにかく、まだローラーが動くオフィスチェアを瓦礫の中から見つけ出し、夫を乗せて、押した。私たちが暮らした通りからアルシファ病院通りまで、瓦礫の山の間を通って、夫を押していった。道半ばまでやってきたとき、どうしてか分からないが、二度目の奇跡が起きた。白旗を掲げている人が見えた。それから、私たちのほうへ担架を持って走ってくる若い男性の姿も。誰がその男性をここへ送り出したのかは分からない。どこから来てくれたのかも。でも確かに、彼は私たちのために来てくれた。

私たちはイブラーヒームを担架に乗せて、アルシファ病院へ走った。ありがたいことに、本当にありがたいことに、夫の頭皮は縫ってもらえて、耳はまたくっ付いた。検査の結果、夫の肋骨は3ヵ所折れていたので、肺に酸素を入れてもらった。ようやく、酸素吸入のためのチューブが与えられたのだった。

私は死を見た。死を見てしまった。夫は深い心の傷に苦しんでいる。本当に深い心の傷だ。目覚めたとき、夫は私のことを思い出せなかった。ふたりの子どものことも、誰のことも覚えていなかった。義父は殉教した。きょうだいは殉教した。体が真っ二つに裂かれて。イエメン大学で夫とともに医学を専攻し、誰からも愛されていた夫の義兄弟にして親友も、殉教した。夫は起きてしまったことに耐えられなかったのだ。深刻な精神的ショックに見舞われていた。現実から逃げ出そうとしていた。夫が私のこともふたりの子どもも思い出せないことが分かったとき、私の心はすっかりくじけてしまった。あのとき私がどんな思いで彼のそばに立っていたかは、神のみぞ知る。

2日後。私たちは病院で2日ほど過ごした。2日か3日か、正確には覚えていない。その後、アルシファ病院からすぐに退去するようにという命令が届いた。私は泣き出した。どうすればいいのだろう。イスラエル占領軍は私にアルシファ病院を出てサラーフッディーン通りを南へ向かえというが、12キロの道のりを徒歩で行かなければならない。しかもすぐに行けという。私は泣き出した。夫と私はどうしろと? それでも自分にはできる、行けるという声が聞こえた。病院中を2時間は探し回った後、ありがたいことに、夫のための車いすが見つかった。これに夫を乗せれば、押して行ける。

私たちはしかし、死から死へと進むことになった。本当に、死から死へ。アルシファ病院を出て、イスラエル占領軍が「安全な経路」と呼ぶものへと進んでいったのだが、イスラエル占領軍は嘘をついた。嘘つきなのだ。

私たちはサラーフッディーン通りの検問所にたどり着いた。私たちは4歳の娘を連れていた。食料は全くなかった。私は5歳の息子を抱えていた。バッグを背負い、夫を乗せた車いすを押していた。肩はずいぶん凝っていた。検問所に着くと、イスラエル軍は私たちを午前11時から午後4時まで待機させた。そして、誰ひとり通行を許可しなかった。これがイスラエル軍のやり方なのだ。座ることも禁じられていた。ずっと立ったままで、両手を上げることを強いられた。イスラエル軍は待機中の10人ほどを手当たり次第に拘束し、ただ「おまえだ、来い!」「おまえ、来い!」と言った。挙句の果てに、午後4時になっても、誰ひとり通過させなかった。イスラエル軍は全員に言った。「去れ」 どこへ去れと? どうやって? いわく、「われわれの知ったことではない。お前たちで解決しろ。そら、去れ!」 そこで立ち去ることを拒んだなら誰でも戦車によって砲撃され、逃げ出す人びとは背後から撃たれただろう。

私たちは当てを失くし、爆撃が続いている北へとまた戻った。夜の闇が下りたので、私たちは行き先を求めて、あたりが爆撃されている中を駆け抜けていこうとした。オリーブ通りに学校があった。危険だと思われている一帯だった。学校に避難していた人びとは、私たちを見ると「こっちへおいで!」と言い、私たちを学校へ連れていった。人生最悪の夜がやってきた。私たちは何も持っておらず、校内はとても寒かった。敷物、枕、毛布、どれもないまま教室の床に座った。子どもたちと一緒に、凍えるほど冷たいタイルの上に一晩中座っていた。そのあいだずっと学校は戦火に取り囲まれていて、爆弾の金属片がこちら目掛けて飛んでくるのだった。私たちは夜の間ずっと恐れおののいていた。そして朝7時には、銃撃戦。校門から撃ってきている。窓から外をうかがうと、戦車が校門のあたりに駐まったのが見えた。それで私たちは駆け出した。イスラエル軍が走る全員を背後から攻撃していった。走り続ける私たち。その背後から撃ち続けるイスラエル軍。そして私たちはまたガザ市へ戻った。人生最悪の日だった。私の義兄弟の親戚がいる地域にたどり着いた。ただただ、ひととき身を隠す家を見つける必要があった。自宅は破壊され、義父の家も破壊された。

戦闘休止中に家族が家に戻ったところ、もはや家は見つけられなかった。白燐弾が至るところに落ちたため、何もかもすっかり破壊され、跡形もなかったという。もうそこで暮らすことはできない。きょうだいの家はすべて、ひとつまたひとつと破壊された。妹の家も倒壊したが、妹と夫、その子どもたちは瓦礫の下から出てきた。神が守ってくださったのだ。みな住み家を失った。私たち全員が住み家を奪われたのだ。

私は死をこの目で見た。死を見てしまった。自分自身の目で見てしまったのだ。自分が陥ったこの状態から私は出られずにいる。私は自分を鼓舞しようとしている。家族の前では気丈に振る舞っているけど、内心ではすっかりくじけている。私は心をすっかり閉ざしている。どうしてこのすべてに耐えることができたのだろう。どうやって、みんなで瓦礫の中、学校の中を、あの後のすべての中をくぐり抜けてきたのだろう。最近、私今暮らしている家から離れたところが爆撃された。その爆発を見たが、あんなものではなかった。私の近くで起きたときのほうが、ずっと恐怖を感じた。思い出してしまう。私がくぐり抜けてきたすべてのことを。火に取り囲まれたときのことを思い出してしまう。壁が崩れてきたときのことを思い出してしまう。ひとつひとつのできごとがまた起きているかのようにすべてを思い出してしまう。私は母を抱きしめて言った。「お母さん、私は、見たことすべてがまた起きるのを見るのは耐えられない。もう見たくない。もう無理なの、耐えられないの!」私たちは今、この家にひととき身を寄せている。戦争が終わった後、私たちはどこへ行くのか、どこで暮らせばいいのか、分からない。
戦闘休止中、私は街へ出かけた。街は身のすくむようなありさまだった。荒野だ、荒野。文字通りの荒野。私は元の家へ行った。服の一着くらいでも何でも、見つけられるものはすべて持って行くためだ。そして私はかつての家が恋しくてひたすらに泣いた。何かを見つけようとしたが、何も見つからなかった。ミサイルが落ちたせいで、家は全く住みようがなくなっていた。私たちがそこにいなかったのは本当にありがたい! またありがたいことに、夫は少しずつ良くなっている。夫の健康状態は上向き始めている。ただし、縫合した部分の抜糸にはまだ時間が要る。それに、たくさんの瓦礫の下に埋まったので、夫の筋肉の回復にも時間が必要だ。心のショックからは立ち直りつつあるけど、辛抱しなきゃいけない。少なくとも2カ月はかかると言われた。ありがたいことに、時間さえあれば、前よりも良くなりそうだ。夫が経験した深刻な心の傷は、時間が癒やす。

こうして、あったことをすっかり話し終えた。これであなたがたもあいつらの悪事を暴露できる。私たちの声を広めて、私たちが経験してきたすべてを伝えてほしい。ありがたいことに、私はすべてを見た。大切な人を亡くした。家を失くした。資産を失くした。失わなかったものはただ神への称賛だけ。神よたたえられよ、神よたたえられよ、神よたたえられよ、私は無事です、夫は無事です、子どもたちは無事です。私の義父、義兄弟、義姉妹の魂に神のお慈悲があらんことを。私の義姉妹の夫ハーレドの魂に神のお慈悲があらんことを、そして私たちが失くした子どもたちの魂に神のお慈悲があらんことを。神に感謝します、私の子どもたちと私は無事です。夫についても神に感謝します。神の思し召しにより、夫は良くなるでしょう。神の思し召しにより、私たちは以前よりも善き人になっていくことでしょう。