ふたたびまどろみのなかで

原口昇平のブログ

差別の二方向性

かつて初就職先でよく一緒に昼飯を食べに行ったドイツ白人男性同僚に、あるときこう尋ねた。
「もしも自分もやってたら直したいから教えてほしいんだけど、日本でどんな差別を経験してる?」

 

「そうね。プラスの差別、かな」と彼は答えた。「顧客訪問へ例えばフィリピン人女性が行くか、僕が行くかで反応が違いすぎる」


「なるほど……」
「そう、それはぜんっぜん気持ちよくない。しかも顧客だから言いにくい。本当にいやだ。やめてほしい」
「自分もやってるかもしれない、気をつけるよ」と私は答えた。
「ありがとう」

 

彼は本当にまっとうな人権意識の持ち主だ。

そして思えば、自分もプラスの差別を受けてきた。

 

例えば、近所の小児科は、医療に関しては良心的だと思うんだけど、妻が行くと親しみあふれるタメ口で、私が行くとキリッと敬語になるん、やめてほしい。

また例えば、近所の子ども館へ初めて行ったとき、妻が書類に必要事項を記入している間に、私が子どもを連れて施設利用の説明と注意事項を係の人から聞いていて、あとで合流したときに私が妻に要約して説明したら、係の人に「お父さん偉い! すごい!」て意味不明なくらい褒められたんだけど、あれもやめてほしい。逆は褒めんやん。


そういうの挙げたら、ホンマにキリないくらいあるやん。なあ、下駄履かされてるわれら男性諸君?

プラスの差別を受けたときは、マイナスの差別を受けたときと同じくらい、ちょっと目が回る。
「は? どゆこと? なんで?」ってぐるぐる考える。
それはやっぱりきっぱり否定すべき事態だったと確信するころには、もう言うタイミングを逃していて、でもまだ適切な否定の仕方が分からず内心モヤモヤプンスカしてたりする。


なんでプンスカするのかっていうと、プラスの差別を受けた人はそれを肯定した時点で、自分自身こそが(対になるマイナスの差別も合わせて)差別をしたことになっちゃうからなんだよね。
でも、した人に言いにくいんだよ。
相手はたいていただ褒めてるつもり、ただ持ち上げてるつもりなんだもん。

 

いちばんモヤモヤプンスカするのは、すぐやめてもらえるよう、それでいてあまり波風立てないように伝える方法が、すぐに見つけられない自分自身に対してなんだけどもね。
子ども館の件なんて、係の人は年配女性だったんだけど、あれって父親のご機嫌をとっておいたほうが、父親のためだと思ってるからじゃないよね。家庭円満というか、最終的に母親の安心・安全につながると思ってるからだよね? そこに、恥ずべき男たちがいた悲しく憤ろしい歴史がみえる。ひどすぎるじゃない? なんてひどい歴史だろう。ぜったい変えなきゃって思うじゃん。ぐるぐるぐるぐる考えるじゃん。気がついたらもう、適切な言葉も見つからないまま、言うタイミングも逃しちゃってる。

 

もっとうまくやめてもらえるようになりたい。鍛錬中だ。

Back for Bach to Folk

岩川光さんが6/17(土)、所沢・松明堂音楽ホールに戻ってきた。リサイタルツアー2023「バッハ×ケーナ」の最後を締めくくるためだ。

そして、ケーナを通じてバッハに新しい生命を吹き込むと同時に、バッハによりケーナの新たな可能性を切り拓いてみせた。

 

プログラムはツアー中、その日の会場、天候、雰囲気に合わせて毎回変えているのだそう。今回は、下記のとおり。

 

前半

  1.  不詳:キリエ ~ バッハ:無伴奏チエロ組曲第6番前奏曲
  2.  バッハ:無伴奏フルートのためのパルティータ全曲
  3.  バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番全曲

後半

  1.  ピアソラ:6つのタンゴエチュードより第4曲(緩)と第3曲(急) ~ バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番から第3楽章サラバンド(緩)と第2楽章コレンテ(急)
  2.  バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番全曲(ハチャケーナ使用)

アンコール アイルランド民謡メドレー

 

ケーナによるバッハはまるで、西洋音楽史を裏面から書き直すかのようだった。曲間に岩川光さんが客席に向けて語ってくれたところによると、コロンブス到着の数十年後には西欧から来た征服者が最初の教会を建てたそうなのだが、その記録に先住民の中の奏者たちが西欧の楽器を驚くほど速く、いともたやすく次々にマスターしていったことが書かれているそうで、しかも何人かは西欧へ渡ったと考えられるという。岩川さんはここからインスピレーションを受けたそうだ。

岩川さんの試みは、私が思うに、西欧各地の民謡に由来し宮廷で洗練されて変貌した、いわば下から上へ吸い上げられた舞曲を集めたバッハの組曲を、被征服民の楽器であるケーナによりもう一度上から下へ取り戻すように演奏しなおしたらどうなるのか、というワクワクする挑戦だった。

結果として、バッハは、ケーナ独特の倍音を含む音色や息遣いのおかげでとんでもなく豊かな表情をめざめさせられ、ケーナは、バッハが要求し岩川光さんだけが応えられるとんでもない超絶技巧により新境地を切り拓いていた。

 

さらに岩川さんの即興で急遽曲目が差し替えられ、ピアソラとバッハの対話空間が設けられたことも、個人的にはたまらないほどうれしかった。

ピアソラは当初、旧態依然のタンゴに見切りをつけて現代音楽を学ぶためパリに留学するも、師事したナディア・ブーランジェから本分がやはりタンゴにこそあることを見抜かれたことをきっかけに、タンゴへ立ち戻ってやがてその革命児となる。

そのピアソラが明らかにバッハを意識して作曲した6つのタンゴエチュードから緩急の2曲と、さらにその応答としてバッハ当人による無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番から緩急の2楽章を、岩川光さんは演奏してくれたのだった。
私はケーナによるピアソラを聴くのは初めてだったので、岩川さんのおかげで私の中のこの作曲家にも新しい表情が生まれた。4拍子を3・3・2・3・3・2や3・3・3・3・2・2に分割するあの革命児独特のアーティキュレーションが、ケーナに強い息を吹き込んだときのあの渋みのあるアタックで、すっかり生まれ変わった。

 

アンコールも素晴らしかった。後半最後のバッハの組曲の最終曲ジーグはもともとスコットランドアイルランドの民謡に由来する形式をとっている。その流れから、岩川さんはアンコールでさらにケーナアイリッシュのトラッドナンバーを奏でた。そうすることでバッハから民謡へバックしただけでなく、いわばブエノスアイレスで日本人の友と酒を飲みかわすアイルランド人の姿を、岩川さんは音楽で私たちの前に呼び出してみせたのだった。

 

岩川光さんの音楽はこうして、時間と空間と社会階層を飛び越えるこの縦横無尽の文化的越境によって、どこへでも移ろいながらその場のものを吸収してはしなやかにしたたかに生き抜いていく力が人の根底にあることを、私に思い出させてくれたのだ。本当に、至福のひとときだった。

 

Hikaru Iwakawa | 岩川光 ウェブサイト

Hikaru Iwakawa | 岩川光 twitter アカウント

松明堂音楽ホール

怒りを込めて共に正しい方向へ拳を振り上げるために――2021年メキシコ・トラスカラ州地方選挙における不正な性別変更申告とその決着をめぐる日本語圏SNSの流言の検証

 

はじめに 

私は本稿において、twitter 日本語ユーザーの一部で2021年5月以降拡散されてきたトランスジェンダー女性に関する流言のひとつが事実に反することを明らかにします。

その流言とは、「メキシコのある州で、男性政治家18人が、政党に男女同数の候補の擁立を要求する法規制を回避するため、選挙期間中または当選後に9人を女性として再登録し、当局から承認された」というものです。

現在最も流布しているトランスジェンダー女性に関する流言はまずトイレ、次にスポーツをめぐるものであって、選挙をめぐるこの流言はそれらほど広まっているわけではありません。にもかかわらず私が本稿でこの流言を特に取り上げる理由は、トランス女性差別につながるおそれがあるからだけではなく、シス&トランス女性の両方の政治的権利を抑圧する材料になるおそれもあるからです。実際、日本でも候補者男女均等法を改正して政党に男女同数の候補擁立を課そうという提案が上がっている中、この流言を信じている人が、これを例として示しながら、日本でも同じように性自認に基づく法的性別の自己決定を認めると男性政治家が法規制から逃れる目的で性別を変更しても当局により承認されてしまうかもしれないとすでに主張しはじめています。金と権力を仲間内で分け合うホモソーシャルな男性中心の政治を終わらせるため、女性をはじめとする多様な属性の人びとの権利を擁護してその参加を促進する変革が今こそ強く求められているにもかかわらず、問題の流言はそうした変革を遅らせるおそれがあります。

したがって本稿では、まず問題の流言の典型を確認した上で、オンラインで公開されているメキシコの公文書に基づいて事実を整理することによって、流言の内容が事実とどれほど乖離しているかを明らかにします。次に、ふたたび流言の典型を見ながらその発生に至る直接の原因を分析し、教訓として衝撃的な外国語ニュースの紹介時に気をつけたいことを提示します。最後に、全体を振り返りながら、そもそも遠因として、現代日本の男性支配の政治に対する極めて強い不信と憤怒があることを指摘します。その不信と憤怒はトランスの人びとにではなくむしろ金と権力を分け合う強者男性たちにこそ向けられるべきであるからには、私は、そのような男性中心の政治制度に反対するあらゆる人びとに対し、立場を問わず改めて全員の力を合わせて変革を起こそうと呼びかけ、本稿を締めくくります。

 

流言の典型

この流言が日本語圏に大きく拡散されるきっかけとなったのは、2021年5月14日にtwitterへ投稿されたこちらのツイートでした。

この「ポルノ・買春問題研究会」というtwitterアカウント @appjp_kokusai はスペイン語の記事を参照していますが、この時点ですでに3つの問題がありました。

詳しくは後で説明しますが、第1に、参照された記事は、現地の記者が独自取材や公的機関の発表に基づいて書いたものではなく、スペインの記者が、当時スペイン議会に提出されようとしていた法案(一定以上の年齢の人の性自認に基づく性別変更を合法化するもの)を問題視する自らの主張に合わせて、遠く離れたメキシコ発のニュースから情報を切り出したものであったため、不正確かつ不十分な内容でした。

第2に、参照された記事は、当時リアルタイムで進行していた事象をまるで完結したできごとのように伝えるものであったため、その事象は後の展開で最終的に反対の決着をみたにもかかわらず、その記者だけでなく日本語圏の読者たちもその結末を自ら進んで確認することがありませんでした。

第3に、この参照記事を紹介したアカウントは、そもそもスペイン語の報道記事を独力で正確かつ十分に読みこなすのに必要なリテラシー能力を欠いており、実際、問題の多い参照記事にすらなかった明白な誤り(男女同数要件の不充足を問われて性別を変更したのが「18人のうち9人」であったとする表現)を紹介文に盛り込んでしまい、結果としてまるで立候補したのが全員男性であったかのようなさらなる誤解を日本語圏の他の読者たちに与えることになりました。

ここから大きく広まり始めた流言はさらに歪曲・誇張されていき、極端なものまで登場しました。一例として twitterアカウント rinn215 のツイートを挙げます。

ここまでくるともはやほとんど全くのでたらめなのですが、それでは事実はどうだったかを以下で確かめていきましょう。

 

公的文書に基づく事実確認

確認の手がかりは、2021年メキシコ統一地方選、参照記事に登場する「フエルサ・ポル・メヒコ」という政党名、「トラスカラ州」という州名、そして「候補者の最初に申告した性別を、法規制回避のため自己申告で別の性別に変更して再申請した」という事実です。

これらの情報を使ってスペイン語でウェブを検索していくと、メキシコのトラスカラ州選挙裁判所が公開している2021年選挙訴訟第66の判決文を始めとする一連の公式文書群が見つかります。それらは案件番号TET-JE-066/2021で検索すると、スペイン語さえ理解できればオンラインで読むことができます。

それらに基づくと、事実は以下のように整理できます。

  • 2021年4月、フエルサ・ポル・メヒコ党が、メキシコ・トラスカラ州の全60中42の地方自治体の選挙で、首長や議員の候補者名簿を、同州選挙管理組織(以下、「選管」といいます)に提出。
  • 5月2日、選管はそれら42の候補者名簿の受理を保留。理由は、名簿に記載された首長候補が女性16人と男性26人で構成されており、メキシコ法で定められた候補者の男女同数規定要件を満たしていなかったため。
  • これを受けて、同党は首長候補のうち、男性1人を別の女性1人に交代させた一方で、男性4人の性別のみを自己申告により女性に変更。さらにこれに伴う辻褄合わせのため議員候補でも男性10人の性別を女性に、女性5人の性別を男性に、男性1人の性別をなしに、それぞれ自己申告で変更して候補者名簿を再提出。(つまり、実際に自己申告で性別を変更した候補者は男女合計20人。)
  • 5月6日、選管の7人委員会が多数決によりいったん受理。ただし受理に賛成した委員の賛成理由はあくまで消極的であり、プライバシー権尊重のため自己申告以外の根拠の提出は要求できないからというもの。
  • 受理に反対した委員から問題を伝え聞いたフェミニストグループやLGBTQ+コミュニティからすぐに非難の声が上がり、報道がスタート(前述のスペイン語記事はこの後5月8日に発表)。すると、4月にトラスカラ州初のトランス女性候補1人を他のシス男女と合わせて擁立したことで話題となっていたベルデ・エコロヒスタ・デ・メヒコ党がトラスカラ州選挙裁判所(以下、「選挙裁判所」といいます)にこれを告発。告発事由は、男女同数規定違反を問われた後の自己申告による性別変更は違反隠しが疑われるため。
  • 5月27日、選挙裁判所は2021年選挙訴訟第66の判決として告発の正当性を認め、被告フエルサ・ポル・メヒコ党の男女合計20人の立候補受理を取り消し。さらに48時間以内に男女同数要件を満たす候補者名簿の再々提出をフエルサ・ポル・メヒコ党に要求するよう、選管に命令。
  • 5月28日以降、選管が判決内容について選挙裁判所に問い合わせ。質問内容は、立候補受理を取り消された人が名簿の再々提出にあたって最初に申告した性別に戻した上で立候補する役職を変更した場合、立候補を認めてもよいかどうか。選挙裁判所はそれを禁じる法律はないと回答。
  • フエルサ・ポル・メヒコ党がこれに応じて候補者男女同数要件を問題なく完全に満たす候補者名簿を再々提出。
  • 投票当日である6月6日、選管が再々提出された候補者名簿を受理。
  • 8月27日、選挙裁判所が命令の履行を最終確認。

以上から分かるように、事実は、twitterアカウント「ポルノ・買春問題研究会」による最初のツイートとはかなり異なっています。まず、もともとの性別を変更しようとした候補者の人数構成をみると、流言は男性18人のうち9人としていたのに対し、事実は男性15人と女性5人の合計20人でした。またその決着を見ても、候補者男女同数要件の不充足を回避するための性別変更は「了承された」のではなく選挙裁判所によって「却下」されていました。

しかしもっと注目に値するのは、もうひとつの事実と、前述の判決のポイントです。

まず、被告フエルサ・ポル・メヒコ党ではなく、原告ベルデ・エコロヒスタ・デ・メヒコ党が擁立したトラスカラ州史上初のトランス女性候補1人――美容室経営者バレリア・ロアティ・ディアスさん――は、あいにく当選を逃しましたが、少なくとも問題なく女性候補の1人として当局に立候補を受理され、6月6日、投票の対象となっています。

また、前述の判決のポイントは、被告フエルサ・ポル・メヒコ党が候補者の男女同数要件を満たしていなかったために候補者名簿の受理を保留された後では、再提出のための性別変更は自己申告のみでは認められないというものでした。

つまり、トランスの権利が日本に比べてより法的に保障されているメキシコのような国で、法的性別を出生時に割り当てられたものから性自認に基づいて変更を自己申告することは、ディアスさんのように正当な場合は認められるが、フエルサ・ポル・メヒコ党の件のように法律違反の隠蔽を目的としていることが疑われる場合など特定の状況では、認められていないということです。

にもかかわらず、日本語圏で現在流布している反トランスの言説は――先に見たtwitterアカウント rinn215 のツイートがその典型ですが――性自認のみに基づく法的性別の変更を合法化すると常に違法行為が野放しになるかのように喧伝しているのです。

 

ふたたび流言の典型を見つめる――直接の原因と対策

さて、前述のように、「ポルノ・買春問題研究会」というtwitterアカウント appjp_kokusai が2021年5月14日に投稿したツイートには、すでに3つの問題がありました。ここから詳しく論じます。

第1に、参照された記事は、現地の記者による独自取材や信頼できる機関の発表に基づいて書かれたものではありませんでした。記者ナンシー・システルナさんは著者ページによるとスペイン、アンダルシア州カディスの人。そして彼女が続けて発表した他の複数の記事(これこれ)によると、彼女は明らかに、当時スペイン議会に提出されようとしていたトランス法案(14歳以上なら自己申告で性別変更を可能にする法案)に反対していました。つまり、本稿で問題にしている参照記事は、彼女が、性自認に基づく性別変更を合法化するとさまざまな問題が生じうるとスペイン国内に向けて主張するために、その一例として遠く離れたメキシコ発のニュースからちょうどよさそうな情報を抽出したものだったのです(だからこそ事実とは異なり、男性のみにフォーカスされ、人数も不正確となっています)。しかも困ったことに、彼女はそのとき参照した情報源を記事の中で全く明らかにしていないので、後追いの検証が困難です。こうした記事の書き方では、記事の内容が記者の視点に強く引きずられて、伝言ゲームのように大元の事実からもそれを最初に伝えた一次情報からも離れていくことを全く防げないため、大手メディアでは編集部によってまず認められませんが、新興メディアでは影響力や広告収益の拡大を目指すあまりセンセーショナルでありさえすれば残念ながら許されてしまうことがあります(実際、この記事を掲載したメディア「エル・コムン(El Común)」は「真実を提供して(aportando verdad)」「議論を生み出す(con la generación de debate)」ためなら「客観性を超えて(más allá de la objetividad)」いくことを厭わないと自ら宣言しています)。こうして、彼女と同じ問題意識を持ちながら後述するようにスペイン語を十分に読めない日本語圏の読者を介して、ますます事実から乖離した流言が広まることになりました。

第2に、参照された記事は、当時リアルタイムで進行していた事象を、まるで完結したできごとのように伝えてしまいました。これは、記事が「決して起こらないはずのことがまた起こってしまった(aquello que nunca pasaría ha vuelto a pasar)」という一文から始まっていることに最もよく現れています。一般に、進行中の事象の一時的経過は、その後の展開によって容易に覆されることがあるものですが、記者は、そのような途中経過を伝えたにすぎなかったはずのメキシコ発の一次情報を、まるで完結した事件を伝えるニュースのように受け取ってしまっていたためか、自らその後の展開を追って記事化することはありませんでした。こうして、この記事が、伝言ゲーム効果により事実から乖離しながら不正確となった途中経過の情報を、まるで完結したできごとのように伝えてしまったせいで、日本語圏の読者たちは、進行中の事象が最終的にたどり着いた反対の決着を、これまでずっと自ら確かめることがありませんでした。

第3に、これが最も不幸なことですが、この問題が非常に多い記事を参照してツイートをしたアカウント「ポルノ・買春問題研究会」の中の人は実は、参照しているはずのスペイン語の記事を正確かつ十分に読むことができなかったと思われます。それはツイート中の極めて単純な誤認によくあらわれています。すなわち「18人のうち9人が自認が女性だとして『女性』として登録し直すと」という記述です。参照記事のどこにも、性自認を変更して再登録したのは「9人」「半数」であったと書かれていません。もちろん、産業翻訳を職業としている私自身も例外でなく、人はさまざまな誤訳をするものです。しかし数字の間違いほど誤訳として明白なものはありません。「ポルノ・買春問題研究会」の中の人がこれに気づけなかったということは、スペイン語原文と照らし合わせて自らの日本語紹介文を見直すことができなかったということです。もっと踏み込むと、このアカウントはスペイン語で情報を理解する能力を少しでも有しているのかが疑われます。というのも、もしもその能力を有していたならば、日本語で衝撃的なニュースを目にしたときに私たちがふつうはするように、参照された記事の信頼性を検証して裏付けとなる情報をスペイン語で検索することができたはずだからです。スペインの記者が遠く離れたメキシコの一地方で進行していた事象の途中経過を取材も裏付けもなく不正確にまとめながらあたかも完結したできごとのように書いた記事を、このアカウントが典拠として挙げてしまったという事実そのものに、このアカウントのリテラシー不足がよくあらわれているのではないでしょうか。

ここから教訓として、進行中の衝撃的な事象に関する外国語ニュースを翻訳・抄訳して紹介するときに気をつけたいことが4つ導かれます。

  1. そもそも、自力で読めない言語のニュースについては、いくら衝撃的な内容であっても、慎重かつ冷静になりましょう。特に、意味を確認する目的で機械翻訳を使わないようにしましょう。機械翻訳エンジンは言葉の意味や事象の背景を理解したうえで結果を出力しているわけでは全くありません。機械翻訳を使ってよいのは、その言語が理解でき、背景の情報を十分得ていて、機械翻訳のどこが誤っていてどう修正すべきかを正しく判断できる人です。自力で読めない記事を機械翻訳で読んで分かったつもりになったり、ましてやそれを典拠として挙げたりするなどは、もはや論外です。
  2. そのニュースを自分が読み書きできる言語で再発信する前に、大元の情報をもたらした現地のジャーナリストなら最低限もっているはずの知識をできるかぎり学び、最低限するはずの検証をできるかぎりしておきましょう。能力、知識、資料が不足しているせいでニュースメディアの信頼性をレーティングできない場合は、そもそも情報源または典拠として取り扱うべきではありません。そしてある程度信頼できる場合でも、ファクトチェックは欠かせません。例えば犯罪に関するニュースなら、ある程度事象が進行した段階で出てくる公的発表や複数の関係者の証言を参照したほうがよいでしょう。というのも、翻訳者や紹介者がそれをやらなければ、それをやらなかったために生じるコストとリスクを言論空間全体に押し付けることになりますし、本当に必要な問題解決が先延ばしになります。今回の場合、それで得をすることになったのは、日本におけるホモソーシャル異性愛シス男性の政治、経済、社会的強者です。彼らは、日本における候補者の男女同数規定の導入を遅らせることで、その間はずっと金と権力を仲間うちで分け合いつづけることができてしまうのです。
  3. その事象を時間的(歴史的)にか空間的(地域的)により大きな視野で捉えるための情報も同時に集めておきましょう。今回の文脈でいうと、実は過去(2018年)にもメキシコで候補者の性別が問題となり選挙裁判所に判断が委ねられたことがあったのですが、もしもそれを知っていれば今回も選挙裁判所の判決はどうだったか調べてみようと思ったはずです。
  4. 自分がその後も責任をもって事象の進行を伝えるようにしましょう。これは、差別や暴力につながりやすいセンセーショナルな反応ばかりを周囲に引き起こしてしまうのを防ぐためです。今回の文脈でいうと、実はスペイン語が読めなくとも、別のニュースメディアから出た5月初頭から5月27日の判決までの経過を伝える6月2日付英文記事は読むことができたはずでした(こちらも候補者の構成人数は不正確ですが)。つまり、きちんと事象の進行を追いかけていれば、あの不正な性別変更が当局に「了承された」と結論付けず「却下された」と周知することができたはずでした。(にもかかわらず、twitterでこの流言を信じ込んではその後の決着を無視して繰り返し言及している英日翻訳者と弁護士がおり、私は大変残念に思っています。)

要するに、ソーシャルメディアで情報を発信する人は、自分のアカウントがひとつのメディアのチャンネルであると自覚しましょう。とくに伝達された事実について感想を表明することよりもむしろ事実そのものを共有することに比重を置いているとき、記者、編集者、翻訳者が日々心がけていることを心がけましょう。なぜか外国語ニュースを翻訳して発信するとなると、発信者の自己コントロールがとても甘くなる傾向があります。とくに発信者が軽視している国や地域、言語・文化・経済圏であればあるほどこの傾向がひどくなります。確かに、2022年ジェンダーギャップ指数ランキングにおいて総合31位を占めるメキシコで女性に対する暴力と差別がはびこっていることは事実です。それでも、総合116位にとどまる日本と比べると、選挙制度を含むさまざまな点ではるか上を行くのです。

 

おわりに

ここまで、まず「メキシコのある州で、男性政治家18人が、政党に男女同数の候補の擁立を要求する法規制を回避するため、選挙期間中または当選後に9人を女性として再登録し、当局から承認された」という流言の典型を確認した上で、オンラインで公開されているメキシコの公文書に基づいて事実を整理することによって、この流言が人数構成や事件の決着において事実に反することを明らかにしました。

次に、同じ流言の典型をみながら直接の原因を分析することで、参照された記事がそもそも、遠隔地の記者が裏付けなく自分の主張に都合のよい部分を抽出してまとめ上げた不正確かつ不十分な情報であったこと、しかも進行中の事象をまるで完結したできごとのように伝えてしまったこと、さらにはそれを参照した日本語圏のアカウントがスペイン語記事を正確かつ十分に読み込むリテラシーを欠いていたことを指摘しました。ここから外国語のニュースを翻訳・抄訳するなどして紹介する際に気をつけたいことを4点挙げ、この流言の発端のように、自分でも正確かつ十分に読むことができない言語の記事を典拠として挙げるなどは論外であると批判しました。

こうして本稿を書き終える前に、最後にもうひとつだけ強調しておきたいことがあります。

それは、この流言が発生し拡散した背景には、そもそも現代日本における強者男性中心の政治に対する強烈な憤怒と疑念と恐怖があったはずだということです。

確かに、男性中心の与党や政府に属する政治家たちは、まさに虚偽を事実と言い張り、いくらルールを破っても金と権力さえあればねじ伏せることができるかのように振る舞ってきました。あったことをなかったことにし、歴史を歪曲し、公文書を改ざんさせ、法解釈を変更し、議事録を修正し、統計を操作し、ときにお仲間の加害男性たったひとりをかばうためだけに官僚人事に手をつけてまで被害女性を黙らせようとしてきた彼らは、たとえ候補者男女同数要件を課したとしても、性自認に基づく性別変更を可能としたならそのときどきの都合に合わせて男性なり女性なりを書類上のみ好き勝手に名乗るのではないか――という強烈な不信感そのものは、私にもよく理解できます。

しかしそれは、絶対にトランスの人びとに向けられるべきではありません。

あくまで、この憤怒と疑念と恐怖を抱かせる、今も仲間内で金と権力を分配しあっているホモソーシャル異性愛シス男性の政治、経済、社会的強者たちにこそ、向けられるべきなのです。

私たちは怒りを込めたこの拳を、二度と間違った方向に振り下ろすことなく、共に正しく本来の対象へ突きつけましょう。そのとき、メキシコをはじめとする改革の先行例は、あとから続く私たちの歩みにとって、とりわけ不正防止の観点から大いに参考になるのではないでしょうか。

 

 

 

よくある質問と回答(2023.3.12追記)

Q. 最初から別の性別で申告していれば通ってしまったのでは?
A. トランスとしての生活実態がなく誰にも知られていなければ、訴訟が提起された場合はやはり最終的には通らなかったでしょう。これについては2018年の判例があります。

Q. 告発なくしては不正は質されなかった。発端のスペイン語記事や日本語圏の反応も、不正確だとしても告発では? 
A. 告発には大きな拍手を送られるべきです。が、告発はデマと同一視できません。

告発したベルデ・エコロヒスタ・デ・メヒコ党はトランス女性候補1人を他の男女とともに擁立しました。また選管7人委員会のうち、消極的受理に反対票を投じて後の告発の動きにもかかわったひとりの委員は反対理由として「女性の権利もLGBTQ+の権利も損なう」と現地メディアに対して答えていました。つまり告発者は反トランスではありませんし、性自認を問題視する人びとでもありません。

一方、日本語圏のデマの発端となったスペイン語記事は、実際に男女同数要件の不充足を問われて性別を自己申告で変更した人びとは男女合計20人だったのに、スペインの記者が自国議会に提出されようとしていたトランス法案に反対するため情報を男性のみの、しかも不正確な人数にフォーカスすることで、トランス女性ヘイトにつながるものになっていました。

これをさらに歪曲して候補者が全員男性だったとか当選してしまったとかいうデマを撒き散らした日本語圏の人びとは、果たして、メキシコのトラスカラ州の人権状況に本当に関わろうとしたことがあったでしょうか。告発者とは異なり、自分たちの関心や主張に合わせて情報を都合よく編集して流したのであり、メキシコのその状況を変えようとしてはいなかったでしょう。それでは告発とは呼べないのではありませんか。

スポーツと心身を過去の呪縛から未来に向けて解き放つために

私はスポーツから閉め出されていると思っていた。水泳以外は、学校体育でまともにできたためしがなく、実際に運動神経ゼロだと言われてきた。スポーツは排他的だと思い込んできた。そうではなかった。スポーツを自分たちだけのものにする人びとの思い込みを刷り込まれてきただけだったのだ。

 

スポーツの本質はインクルーシブだ。断固として、絶対に、そうであるべきだ。スポーツから本当にさまざまなメリットを受け取ってきた人びとなら誰もが同意するだろう。スポーツそれ自体は決して排他的でない。自分自身の身体を肯定する参加の仕方が必ずあるはずだ。

 
だからこそ世界的なスポーツの祭典には、いま批判されている賄賂や政治との癒着やスタジアム建設の劣悪な労働条件を解決することのほかに、そのインクルーシブな本質を明らかに示してほしい。多様な身体のみならず、例えば精神に社会的障害がある人のチームスポーツも種目として採用されてほしい。また、シス女性アスリートを圧倒する身体的優位があるとされるために排除されるトランス女性も、逆にシス男性アスリートに圧倒的に劣るとされるためにスタートラインにすら立てないトランス男性アスリートも、それぞれ自分の身体性を決して呪われることなく何らかの方法で参加できるようにしてほしい。トランスの参加は、スポーツの種目ごとに適切な(部位の筋肉量をはじめとする)さまざまなパラメーターで階級を設定するだけで可能になるのではないか。なぜ制度に合わない身体や精神を排除するのか。身体や精神に合わせてフェアな制度を再設定すべきではないだろうか。

 
20年近く前、うつ病で苦しんでいたころに公園のベンチから目を細めて眺めた光景を私は思い出す。新たに輪の中に入った子どもに合わせて、あるいは新しい提案があるたびに、子どもたちはルールをすぐに変えて楽しげに遊び続けていた。子どもを理想化するつもりはない。ただこれからの選手たちの柔軟さを、私たちの硬直した姿勢で潰すことはないようにしたい。

男性はもはや女性蔑視を募らせている場合ではない――フェミニズムとコミュニズムをカルトが攻撃する理由

私の同級生や交友関係の中にいる宗教2世たちの大部分に不思議なほど共通している点として、まず母親が入信しているという事実がある。入信先はエホバの証人幸福の科学実践倫理宏正会創価学会、旧統一教会などさまざまだが、入信時期はおよそ出産後。これは日本社会の大きな問題を示唆している。

 

妊娠出産後に極めて不安定な状態に陥った女性に対するサポートまたは社会的包摂が不足しているのだ。
産後、車にはねられたのと同様と形容されることもあるほど体はガタガタになり、ホルモンバランスが劇的に変化し、脱毛、肌荒れ、虫歯、内臓や骨の移動による体中の痛み、産後うつのリスクに見舞われる。乳児が粉ミルクを飲んでくれるなら夫をはじめとする他の人も授乳サポートに入れるが、本人の嗜好・特性や何らかのアレルギーなどが原因で母乳しか受け付けない場合は、もはや母親がひとりで対応するしかなくなることもある。新生児の授乳はニ、三時間おきだ。意識は常に朦朧とする。その新生児は健康とは限らない。私の子のようにたびたび原因不明の血便が出てそのたびに腸重積なのではと震えたりすることもある。母親もみな母乳が十分に出るとは限らない。知人のように全く出ないケースもある。眼前のあまりにもか弱い命のすべてが自分の手にかかっているが、その自分は万全ではまったくない。横抱きにして授乳している間に意識を失うと寝返りでのしかかって圧死または窒息死させるのではないか、という恐怖もある。

 

彼女がパートナーをはじめとする周囲の人びとから十分なサポートを得られなければ、彼女はどうなるか? パートナーが仕事に忙殺されていて彼女を助ける余裕がまったくないとか、パートナーがそもそもいない(または山上徹也さんの父親のように彼の妹の産前に自死した)とか、彼女がうまくやれないのは母性がなんたらと言われるとか、母は強しとかいう格言を引いて強くなれと言われたりとか、ちょっと想像力を働かせればどれほど追い込まれるかわかるだろう。

 

「破壊的カルト集団」と呼ばれる類のものは、このような存在をいつも探している。こうしたカルトが「破壊的」といわれるのは、テロを起こすからではなく、対象の社会的関係と生活を徹底的に破壊し、自分ら以外には何者にも頼れないようにするからだ。カルトにとって、孤立無援の母親は全く都合がいい。カルトは彼女に近づき、彼女を助けてくれなかった他の誰でもなく自分たちこそ力になると信じ込ませ、あるときこう語りかける。欲しいものを手に入れられないのは、あなたのものではなく神のものだから。欲を捨て去ることこそが幸福への道。我々ならあなたの財産を布教を通じた人助けのために使えると。

 
そんなカルトにとって、フェミニストは邪魔に違いない。産後極めて過酷な状況に陥った母親に「『母は強し』だろ、強くなれ」などという人たちに対抗して、その「母性」概念を「神話」として扱い、それがいかに抑圧的・搾取的に機能してきたかを説くのだから。カルトにとっては共産党員も邪魔に違いない。DVから逃げて貧困に陥ったシングルマザーに議員が同行して生活保護につなぐなど、さまざまなサポートを行ってきたのだから。「母性」神話の解体と社会的包摂こそが、彼女を孤立させて搾取しようとするカルトにとって妨げとなるのだ。

 
カルトから彼女を守るにはどうすればいいのか? 私たちは彼女を孤立させてはならない。彼女に手を差し伸べなければならない。彼女を孤立から必死ですくいだそうと奮闘する人びとの手を、カルトに邪魔させてはならない。

「男性から半分降りる」ということ

私は1月5日、それを今年のテーマとすることに決めた。といっても半分女性になるわけではない。以前からこれに取り組んでいたけれど、有害な性質はまだまだ私の中にある。その性質をもっとなくしていくということだ。

 

取り組みの契機を私にもたらしたのはコロナ禍だった。リモートワークのおかげで、職場の男性同士で顔を突き合わせる場面がほとんどなくなり、ホモソーシャルな関係に巻き込まれずに済むようになった。

異性愛男性同士で資本と権力を分配するホモソーシャルな人間関係の構造は強力だ。いったん中に巻き込まれると、正気に戻らなければ巻き込まれていることが分からなくなるくらいだ。

子どもが産まれたばかりのころ、当時の直属の男性上司から「きみのことはよく分かる。ぼくも父親になってからずいぶん大変だった。支える人が増えたのだから、今まで以上に仕事に打ち込もう」と言われた私は猛烈な仕事人間になった。

ちょうど、人生に一度しかないと思えるくらい大きなプロジェクトが降ってきたときでもあった。私の力を買ってもらえているし、今こそ自分のキャリアのためにも、妻子のためにも正念場だと思っていた。でもしばらくするとこれはおかしいと思いなおした。私が一時間多く仕事をすると、妻が一時間多く家事や育児を担うのだ。

つまり、私は、仕事と呼ばれる有賃労働を残業で一時間多くやるぶん家事や育児と呼ばれる無賃労働を一時間多く妻に押し付けることによって、妻から有限の時間を奪い、男性上司へと、最終的にはほとんど男性が占める資本家たちへと、捧げてしまっていたのだ。

しかし私の延長した有賃労働から彼らは余剰の利益を受け取る一方で、私の給与は、妻の貴重な時間の喪失に見合うほど上がりはしない。にもかかわらず私が残業を断りづらかったのは、彼らが誠に善良な紳士らしく私の苦悩に共感を寄せてくるからであり、またときには私の仕事ぶりを褒めるからでもあった。彼らは、私を従わせる必要があるときに限って、対面でしっかり関わろうとしてくるのだ。一緒に食事をとって、ときにはおごりさえする。基本的には私の悩みを丁寧に聞くふりをして、実際にはどんな悩みもうまく反転させて仕事に打ち込ませるための契機にしようとする。

 

当時、私は世界最大手クラスの翻訳会社の正社員だった。リードトランスレーターといって、複数のクライアントを担当し、小さな案件は自ら翻訳&校閲して納品。中~大規模な案件は作業方針を設定してフリーランスの翻訳者や校閲者を複数人手配し、自分もどこかのフェーズに参加しつつ最終校正をかけて納品。フリーランスがいなければ決して成り立たない翻訳の現場の仕事だ。

この仕事にはそもそも構造的なジェンダー不平等があり、しかもそれをデータ資本主義が加速させつつあった。

まずジェンダー不平等の存在は単純な男女比からも明らかだ。ざっくりいうと、当時、日本法人の登録フリーランスで3:7、管理職でない社員で5:5、管理職で7:3、そして日本の幹部は9:1くらい。ビジネスを成立させるのに必要な現場の労働力の中心は非正規女性が、幹部は男性がそれぞれ占めていた。

次にデータ資本主義については業界特有の背景があった。当時、新開発の機械翻訳エンジンを導入したワークフローで、フリーランスの翻訳の単価が30%引き下げられた。だがそのエンジンは(公然と知られている事実なのではっきり書くが)大部分でフリーランスが納品してきた訳文を大量にAIに学習させて作り上げられたものだったのだ。

業界外の読者のために少し説明すると、産業翻訳では原文と訳文を文単位でペアにして格納するデータベース(「翻訳メモリ」という)が使用されており、案件のたびにフリーランスに提供することで担当者が異なっても訳語や文体を統一できるようにしている。それだけでなく、新規案件で原文が過去のデータと完全にであれ部分的にであれ一致する場合は、対応する過去の訳文が使い回される分、文単位でどれほど一致しているかによってフリーランスの報酬が引き下げられることが常態化している。

そのように翻訳メモリとの一致率に応じて案件の報酬が引き下げられること自体については、長年その会社と一緒に働いてきたフリーランスは、渋々受け入れてきた。だが、機械翻訳エンジンについては、まさか自分たちの訳文を格納した翻訳メモリが開発のための機械学習に使われるなど、多くの人が予想してもいなかったはずだ。まじめに働くほど自分の首が締まるというわけだ。そして言うまでもなく、現在におけるAIの実性能は常に未来を先取りする謳い文句を下回る(はっきり言おう。開発元のプレスリリースは投資家から資金を集めるためにいいことしか言わないし、営業は市場競争の中で契約を取るためにメリットを誇張するし、メディアは謳い文句と性能の不一致を検証する手段を持たないし、顧客はコストカットを常に強く欲しているし、フリーランスは翻訳会社と秘密保持契約を締結しているので、謳い文句と実性能の間にどれくらいの開きがあるか、個別具体的な例示によって強く批判されることはないだけなのだ)。機械翻訳エンジンによる作業効率の向上は実はとても限定的で、逆に現場では効率が下がることも多々ある。すばやく働き高品質の成果物を納めろというプレッシャーがかかっている中で、現場の言語労働者が謳い文句と実性能のギャップをぎりぎり何とか埋め合わせているだけだ。そうしなければ機械翻訳エンジンを導入した案件自体を拒否するしかない。

その会社の一員であり続けるには、機械翻訳エンジンの導入を呑むしかなかった。それが顧客の要望であり会社の方針だ。だが効率化の名目で導入されたエンジンの大部分は、男性よりも多く家事や育児を担わされることが多い女性フリーランスがそれでも何とか時間をやりくりして完成させてきたデータをベースにしている。社員であり続ける限り、自分も現場の人間として搾取されつつ、この搾取に加担していることになる。

機械翻訳エンジンによって生まれる利益は、なぜ彼女たちに還元されないのか? なぜ、男性が優位なポジションを占める企業の上層部へ、AIに投資する資本家たちへ、最終的にはほとんど男性しかいない世界の大富豪たちへと吸い上げられていくのか? 答えは簡単だ。私たちがこの搾取の構造から降りないからだ。そこに居座ることは、上納金を搾り取っては上に媚びているチンピラとどれほど違うのか。有害性をビジネスマナーで覆い隠しているぶん、もっと悪いではないか。

私は、降りた。猛烈な仕事人間であることを辞め、産業翻訳ではあるがあまり搾取的でないビジネスモデルを構築している会社へと転職し、尊敬すべき非常に有能な女性上司のもとでリモートワークで働き、家事と育児にもっと私の時間を注ぎ込んでいる。かつては、その世界最大手クラスの翻訳会社を辞めることはもっと貧乏になる道だと思いこんでいた。しかし実際には年収は上がった(これは不思議ではない、あまり搾取的でない企業はフリーランスはもちろん社員にも正当な報酬を与えるのだ)し、大切な妻子と充実した時間を過ごせていて、以前より少しばかり幸福になったと感じている。

 

どうか、すべての労働者男性は、私と一緒に、異性愛男性間のホモソーシャルな人間関係に支配された産業構造から半分降りてくれ。もう女性差別をこじらせるな。あなたがたの生きづらさを作り出しているのはフェミニストでは決してない。もっと別の場所にいる。闘う方法はないわけではない。共に模索しよう。

 

「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう」
――エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論西谷修監修、山上浩嗣訳(ちくま学芸文庫、2013年)